【side:Yoritsuna Mikimoto】
その頃は俺自身も、「男」と呼ぶには未熟な少年だったし、純粋に花々里(かがり)のことを「甘い香りがして美味しそうな子」だと思っていただけだ。 お菓子みたいにふんわりと甘いにおいのする、この小さな女の子を、もっともっと甘やかして美味しいものを沢山食べさせたら、極上のスイーツみたいな香りになるんじゃないか。 バカで浅はかな少年だった俺は、幼な心にそう期待したのだけれど。 俺を見るたびに「ね、きょうはどんなおかし、くれるの!?」と嬉しそうに満面の笑みを浮かべる食いしん坊な花々里を見ているうちに、段々罪悪感が募ったんだ。 俺は花々里を相手に、あくなき好奇心と、家で満たされない寂しい想いを埋めるための「穴埋め」をしているつもりでいたのだから。 俺は、自分の高校受験と、家庭内での揉め事を理由に、中3になったと同時、キミの元へ通うのをパタリとやめた――。*** 花々里は、再会した折、幼い頃一時的におやつを少しくれただけの、――それこそ成長途中の少年だった俺の顔なんてすっかり忘れていたけれど。 俺のほうはその罪悪感もあったのかな。キミのことを忘れたことはなかったんだ。 そうしてもう1人。 花々里のお母さん――村陰(むらかげ)さんも、葬儀から程なくして、幼い娘に毎日のように菓子を持ってきていた勤め先の跡取息子のことを、忘れることが出来なかったらしい。 村陰さんが、うちを辞めてからも時折花々里の近況をわざわざ俺宛に手紙を送って教えてくれていたのは、多分そのためだったんだと思う。 きっと俺が、受験や家の事情なんかでやむを得ず娘のもとを訪れることが出来なくなってしまったんだと解釈してくれたんだろうな。 実際はそんな綺麗な理由じゃなかったんだけど、俺は一時期餌付けした、俺によく懐いた可愛い花々里のその後のことを知りたくて、多分だけど……大事なものを奪われるたびに私、少しずつ賢くなれてる。 そんな賢い自分が言うの。 頼綱《よりつな》を好きになったらダメだよって。 だって頼綱は私にはハイスペック過ぎる。 美味しいものをたくさん食べさせてくれるし、それが当たり前だと勘違いしてしまったら、失った時の痛手が大き過ぎるもの。 *** 鰻《うなぎ》は食べられなかったけれど、天ぷらだってやっぱり美味しい。 いただくからにはしっかり味わわないと。 「花々里《かがり》」 そんな風に思っていたら、不意に頼綱に呼びかけられて。 なぁに?って何気なく顔を彼の方へ向けたら、エビ天を差し出されていた。 「くっ、くれるのっ!?」 口の中のフキノトウを慌てて飲み込んで言ったら、「あーん、できたらね」とか! ぐぬぬ。 その箸に向けて口を開けろと!? そ、そ、それ……。めちゃめちゃ恥ずかしいやつじゃん!! 思って躊躇う私に、頼綱が「実は俺もね、今日の天ぷらの中ではエビ天が一番好きなんだ」と言って暗に急かしてくるの。 その顔には明らかに「早くしないと俺が食べちゃうよ?」と書かれていて。 そういえば頼綱、さっき、自分は好きなものからいくタイプだって明言してたっ! 「ダメ!」 折角もらえそうなエビ天。 頼綱の気が変わって食べられちゃう前に何とかしなきゃっ!
確かにテーブル下は床が一段掘り下がっていて、足を下ろして座れるようになっているみたい。 小声でなされた提案とともに、耳孔に頼綱《よりつな》の吐息が吹き込まれて。 「ひゃあっ」 びっくりした私は耳に手を当ててのけぞった。 それと同時、料理を手に現れた、ぱっちり二重の美しい女性と目が合ってしまう。 黄色みがかった麻の葉ぼかしの茶衣着に、燕脂の腰下前掛けが〝あまみや〟の雰囲気にも、彼女がまとう柔らかな印象にもよく似合っている。 私の奇声に動じることなくニコッと微笑んだその人は、肩より少し長いぐらいの黒髪を、後ろでひとつに束ねていた。 「静子《しずこ》さん、今日は急に予約を入れて申し訳なかったね」 そう頼綱が声をかけたところを見ると、顔見知りみたい。 「いいえ。御神本《みきもと》先生にはいつもご贔屓にしていただいて……ありがとうございます」 手にした盆の料理――天ぷらの入った竹籠など――を見れば、彼女こそが先ほどから話に出ていた雨宮《あまみや》さんの奥様だと分かる。 注文はまだのはずだったけれど、すでに料理が運ばれてきたということは……。 「お電話でご予約頂いた、春の天ぷらの盛り合わせです」 言われて、車の中で告げられた提案は頼綱の中ではすでに〝決定事項〟だったんだ、と気が付いた。 ご丁寧にエビ天やサヨリやイカやホタテの天ぷらまでちゃんと盛られているのを確認した私は、小さく吐息をつく。 こういうの、何だか寂しいな――。 一緒に食べに行くのなら、事前にちょっとは相談してくれてもいいじゃない?
「――花々里《かがり》。確かに鳥飼《とりかい》はハンサムだけどね。さすがに目の前で僕以外の男に興味を持たれるのは面白くないんだけど?」 私は今、怖ぁ〜い顔をした頼綱《よりつな》に壁際に追い詰められています……。 ひーん。 口調も「僕」だしっ。 ねぇ頼綱。 私、別にあの人に興味なんて持ってないよ? ヤクザ屋さんじゃなかったんだ!って思っただけだし。 こんなキラキラした頭の研修医がいる病院ってすごいなって感心しただけだよ!? それにあの綺麗な金色を見ていたら……。 じゅるり……。 思わず生つばが込み上げてきて、私は慌てて口の中ににじみ出てきた唾液を嚥下した。 そもそも――。「私、顔は断然頼綱の方が好……」 思わず要らないことを言いそうになって、慌ててブンブン首を横に振った。 「好みの顔」=「好き」じゃない。「好みの顔」=「好き」じゃない。「好みの顔」=「好き」じゃない。 自分に言い聞かせるように心の中で3回そう唱える。 何で3回なのかは自分でもよく分かんないけどああ言う系は大抵「3」だと相場が決まっているもの。 わーん。雨宮《あまみや》さん(の奥様?)、早くオーダー取りに来てぇ〜! 追い詰められた私は助けを求めて障子戸を見つめずにはいられない。 それがまた、頼綱には鳥飼さんを求めているように見えて?気に入らなかったみたい。「言っておくけどね、花々里。鳥飼はダメだ。あいつはひとりの女と長続きした試しがない」 言われなくても見た目で十分判りますっ。 っていうか私、そんな目であの人のこと見てませんし。 強いて言うなら――。「天ぷら……」
わー、すごい綺麗な金髪! 歳は頼綱《よりつな》たちと同じぐらいかなぁ。 髪が金色なだけで人ってこんなに日本人離れして見えるんだ。顔が整いすぎてて何だかちょっと怖く見える……かも。目つきも鋭いし……もしかして、不良?「御神本《みきもと》さんが……?」 なのにそんな金髪の彼でさえ頼綱を見る目にはどこか一目置いているような気配があって。 英語とか喋られたら、私、絶対頼綱の影に隠れていたと思う。けれど彼の口から出たのは耳慣れた日本語で、私にも理解できてホッとする。 まあ、「鳥飼」と言う苗字――だよね?からして日本人なんだろうし、当たり前なんだけど。 そんな金髪の彼が。「あー、お疲れ様です」 って頼綱に向けて頭を軽く下げてくるとか……。 何? 頼綱。あなた、実はここいら一帯を牛耳るボスか何かなの!?「鳥飼《とりかい》も今日は昼までかい?」 そんな私のソワソワなんてどこ吹く風。 そう言えばどこぞの組の若頭と言った風格すら漂わせる私の雇い主が、少し目を眇めるようにして鳥飼さんを見詰めて。 次いで私にちらりと視線を注いだかと思うと、あからさまに鳥飼さんから遠ざけるように立ち位置を変えた。 やっぱり鳥飼さん、カタギの人じゃないの!? ねぇ、頼綱、そうなの!? ドキドキする私を横目に鳥飼さんが「いや、俺、今日は夜なんで……」 と答えて。 夜……? 夜の何!? 疑問符が臨界点を超えた私は、ちょんちょん……と頼綱をつついた。 そんな私に、頼綱がわざわざ肩を抱くようにして「なんだい、花々里《かがり》?」と顔を見つめてくる。 頼綱、かっこいいな。 照れるから至近距離で見下ろすの
「あまみやにはね、2人向けの個室がひとつだけあるんだ。完全予約制のそこを使うときは雨宮《あまみや》の奥方の協力が必要不可欠でね」 そう言って、私の手を引いて店の奥手に向けて歩き出す。「雨宮1人で切り盛りしてる店だから。カウンターが詰まってくると個室への配膳なんかまでは手が回らなくなるんだ。だからって客に取りに来させるわけにもいかないだろう?」 そこで私の瞳をじっと覗き込んでくると「内助の功ってやつだ。実にうらやましい」 と小さく吐息を落とした。「頼綱《よりつな》もそんな奥さんを見つけたらいいじゃない。病院の跡取り息子ともなれば引く手数多でしょうに」 言って、じっと頼綱を見つめたら、「花々里、キミはひとつ勘違いをしているみたいだけど……。俺はまだ家を継いでいないからね?」と言われて。 私は「え?」と思った。「でも頼綱は……」「ああ、もちろん医者だよ。けど、――まだ研修医だ」 って嘘ぉ! 初耳なんですが!「いずれは実家の産婦人科を継ぐつもりではいるけどね、いま俺が配属されてるのは小児科だ」 私はその言葉に瞳を見開いた。 小児科という言葉で、勝手に白衣ではなく可愛い動物のアップリケがついたエプロン姿の頼綱が頭に浮かんでしまい。 思わずププッと吹き出してしまう。「頼綱にパンダのアップリケは似合わないと思うの」 思わずつぶやいて「え?」という顔をされる。「頼綱なら……。うーん、そうねぇ。ライオンとかがいいんじゃないかしら?」 脳内でパンダ、ゾウ、キリン、ウサギ、ニワトリ、イヌ、ネコ……と次々に試着を繰り返してから、それが一番しっくりくるという結論に達した。「まぁ、トラとオオカミも捨てがたいけど」 あ、待って? 鰻とか案外似合いそうじゃない!? 頼綱といえば私に美味しい
「やぁ雨宮《あまみや》、久しぶりだね」 そのカウンターの奥、朴訥《ぼくとつ》という言葉がしっくり来る、黒髪・短髪の店主さんがいた。 頼綱《よりつな》の呼びかけから察するに、屋号にもなっている「あまみや」というのが彼の名前らしい。 キリッとした少し濃いめの眉毛に、板前然とした白の和帽子。そこから出ているところは綺麗に刈り上げられていて、とてもお堅そうな印象。 七分袖の真っ白な法被姿も、如何にもキチッとしていて、謹厳実直そうに見えた。「御神本《みきもと》先輩、お久しぶりです」 先、輩? 頼綱に向かってぺこりと頭を下げる雨宮さんを見て、きょとんとする。「ああ、彼は俺の中学時代の後輩なんだ」 何の?と思ったら「将棋部のね」と言われて、その老成したイメージに、妙にしっくりきてしまった。 っていうか中学の部活で将棋部とかあったの!と驚いてしまったのだけれど。「珍しいだろう? 将棋部」 ってまるで心を読まれたみたいに言われてしまった。 私は「分かりやすいみたいだから気をつけよう」と前に思ったことをふと思い出す。「雨宮、こちらは俺の許婚の――」「奉公人の!! 村陰《むらかげ》ですっ」 許婚、というのをかき消すように被せたら「使用人とふたりきりで料亭にくるとかおかしいだろう」と頼綱に至極まともな駄目出しをされる。 でもっ。 私はあくまでも……あなたとは雇用契約で結ばれただけの存在でいたいの。って言うか、いなきゃいけないのっ!「婚姻届にもサインしておきながら情《つれ》ない女だ」 とか……。 話がややこしくなるのでいらないこと言わないでいただけます!?「御神本先輩、今日は個室でいいんですよね?」 私の心配をよそに、雨宮さんが至ってマイペースにそう言った。 店員